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2010年05月25日

 学びノート集中審議(教育福祉常任委員会)

 平成22年5月20日(木)、午後教育福祉常任委員会が開催されました。今回は、前回の4月21日(水)に引き続き、本年度で計画期間が終了する所沢市第4次総合計画の評価ということで、学校教育関係の評価を行いました。
 私が所属する教育福祉常任委員会では、すべての項目を議論するのではなく、いくつかの項目にしぼって議論をするということになっています。前回は、特に地域福祉と保育政策について、今回は、所沢の特色ある教育ということをテーマにしました。
 まずは、和田小学校で給食をいただきました。
 和田小は栄養教諭(教員免許+栄養士)を配置しており、県内でも有名な先生が給食の解説をしてくれました。

 グリンピースご飯がおいしかったです。
 ちょっとびっくりしたのは、当日は6年生の皆さんとご一緒したのですが、配膳の際に、ご飯は左、汁物は右におくということをご存じないようだったことです。
 確かに、左利きの方にとっては、この型は不便なので、最近はこだわらないことになっているのかもしれません。
 それに、かつては、というよりいまでも、教室の配置が、左側に窓があるように生徒の机も配置していますから、左利きの生徒さんは、どうしても手許が暗くなってしまいます。しかし、最近は手書きで文章を書くことが少なくなったので、右利き、左利きの違いがそれほどハンデにならなくなっているのでしょう。ですから、あまり、配膳の位置にもこだわる必要がなくなっているのかもしれませんね。
 まあ、こういうことを言う私がもう古い人間なのかもしれませんが。
 ついでにいうと、いただきますの際に合掌するのは素晴らしいのですが、パチンと柏手を打たれる生徒さんが複数いらっしゃったのにもたじろぎました。
 そういう私も、いただきます、ごちそうさまの際に丁寧に合掌してませんから、何か言う資格は私にはないのですが。

 ちょっと話が脇にそれますが、食事の仕方というのは、文化そのものであり、例えば、韓国では、ご飯椀(鉄製)を持ち上げるのが不作法となっています。もちろん日本では持ち上げない方が不作法です。

 文化人類学で、例えば女性が水浴びをしている時に、覗かれているのがわかったときに、陰部を隠すか、目を隠すかで文化の違いが分かれるというたぶん俗説を聞いたことがあります。文化はある習慣が始まった理由はともあれ、それが何世代にもわたって、一種のルールとして定着していったものだとすると、食事の作法が変わっていっているということは日本の文化の変容が起こっているといってもいいのでしょうね。
 食育というのは、食べ物の産地や旬を知ることばかりではなく、本来はそういう食事の作法も含まれているのかと思っていたのですが、どうやらそうではないようです。そもそもそうした合意はきっととれないでしょうし、保護者の方にしてみれば、何をそんな強制をするんだという文句が出るのかもしれません。ちょっと現場の方の声を聞いてみたいですね。当然、政治が文化を強制するわけにはいきませんから、多くの保護者が食事作法を文化の共通了解として認めて下さらなければ、やはり食育教育は食材の産地紹介や旬の紹介にとどまらざるを得ないでしょうね。食育基本法が議員立法だったのも、そういった点にあるのでしょう。

 さて、役所に帰ってきて特に、中心的に「学び」ノートについて議論をしました。学びノートとは、所沢市の全小中学生に配布される所沢独自のドリルです。国語と算数、数学、そして最近は英語もあります。
 その志は素晴らしいのですが、はっきりいって、子どもを所沢市の小中学生に通わせている、保護者の方々からムダではないかと文句を言われる筆頭の事業でもあります。

 学びノートのあり方については、教育福祉常任委員会として、提言を行うことになりました。以下、委員長に私が提出した、提言私案を掲載いたします。これを読んでいただければ、この日の議論についてはある程度ご理解いただけるものと思います。

 以下、学びノート提言についての桑畠私案

 所沢市教育委員会の独自事業である「学び」ノート事業については、事業開始以来5年を経過した。平成22年5月20日に開催された教育福祉常任委員会において、英語学びノートについては一定の評価がえられたが、国語、算数、数学の「学び」ノート事業について積極的に評価する意見はなかった。委員会としては、英語を除く、国語、算数、数学については、事業の存続も含め、何らかの改善をすべきという結論に達した。委員会において指摘された事項は、1)当初、自主教材として構想されたが、その後利用が低迷したため、授業での活用も目指すことになった。そのことが、このノートの成果をあいまいにしているのではないか。2)アンケート調査など保護者や現場の先生など、利用者の声を反映させる工夫をほとんどしてこなかったのではないか、3)利用対象を、学力の底上げに加えてより発展的な学習もできる内容を加えるなど、編集の方向性に混乱があるのではないか、4)副教材などの費用負担を抑制する目的は結果的には達していないのではないか、などであった。
 今後の改善にあたっては、1)英語の学びノートのように利用対象や目的を絞り込む、2)現状の全員配布から、製本配布を希望しない利用者には配布しない制度を設ける、3)著作権料の支払いも含め、教科書準拠の内容とする。などを検討すべきであり、現状のままでの事業続行は容認しがたい。
 以上、教育福祉常任委員会として、提案する。

 終わり


 

2010年05月20日

 基地対策協議会にて「基地返還の日」を提案しました

 5月20日付けの朝日新聞を見てびっくり。なぜか、基地対策協議会の昨日の話し合いの記事が埼玉西部面に掲載されていました。もっと、びっくりしたのが、私の発言が掲載されていたことです。
 引用しておきます。

 「北方領土の日のように基地返還を求める日を設け、市民全体でアピールしたほうがいい」との提案もあった。

 引用終わり。

 所沢の地方メディア 日刊新民報でも、見出しが、「基地返還の日を提案」
 となっていました。

 提案した本人は、たまたま先日根室市議会の方が視察に見えられていて、その時に北方領土の日
(2月7日)の話題がでてきたのを思い出して、提案したものです。

 北方領土の日

 もし実現したら、基地返還の日には、みんなで、基地をぐるりと人間の輪でとりかこみたいですね。

2010年05月18日

 廣瀬氏(市議会議長会)金井教授(東大)にも質問

 昨日に引き続き、性懲りもなく日本自治創造学会研究大会にて質問をいたしました。
 くわけんは、「第2分科会 政策立案と開かれた「議会づくり」」に参加。
 パネラーの全国市議会議長会法制参事 、 明治大学大学院講師  廣瀬 和彦氏は、議会改革に関わる4つの論点を提示。「議会基本条例」「反問権」「決算審査と事業仕分け」「議員定数」など。
 廣瀬氏が、反問権についての説明の中で、「議員は、やはり財源問題について首長から指摘されると弱い。そのためにも議会事務局の強化が必要」との主張。くわけんは「議員も特に議会事務局の強化が実現せずとも、これからは財源問題もセットで何らかの要求をしていくべきだし、それはそれほど大変なこととは思わないが?」と質問。
 廣瀬氏はそれに答えて「やはり議員が本当に責任ある財源の議論をするにはやはり議会事務局のバックアップが不可欠」と回答。

 つづいて、コーディネータの金井先生にも質問。くわけん「先生はオランダの行政事情にお詳しいと聞いている。オランダの地方議員の年収や権限について紹介していただきたい」金井先生は、「私に質問がくるとはまさに青天のへきれき。オランダの地方議員の収入はしらない。ただいずれにせよ、外国の地方議員との比較はあまり意味がない。国によっては、地方議会も政党で序列化されていたり、そのために地方選挙に比例代表もあったり、ただ単に収入だけを比較しても全く意味がない」と至極もっともなお答えでした。

 廣瀬氏からも議員定数についての大変参考になる示唆をいただきましたが、議員定数の在り方についてはまた、改めて。

 

2010年05月17日

 元ニセコ町長、逢坂 誠二(衆議院議員)首相補佐官に質問

 本日5月17日(月)、日本自治創造学会第1回の研究大会があり、参加しました。
 プログラムにある、逢坂 誠二(衆議院議員)首相補佐官で最後に質問しました。
 逢坂氏は、政府の政策のなかで、国と地方の協議の場を地方六団体と協議する機会を制度化する法案が、上程され参議院で可決したこと(おそらく衆議院でも可決するでしょう)をこれまでになかったことで画期的と評価されて報告されたことについての質問です。

 <参考>国と地方の協議の場に関する法律案

 くわけん「地方六団体が必ずしも、地方の声を代弁する組織の相手としてみなすことは、あまり納得がいかない。全国市議会議長会会長を私は選挙で選んでいない。」
 逢坂補佐官「その指摘はごもっとも。(六団体の)レディチマシー(正統性)の問題は議論のあるところだ。六団体の在り方については、国からどうこういえる問題ではないので、むしろ地方の側から、役員選挙を導入するなどして改革してほしい」

 という肩すかしの返事が返ってきまして。なにしろ議長にもなってないのに、どうやって働きかければよいのか?

 質問は1分でということだったので、前置きがないのですが、私も、この法案自身はまあ、一歩前進かと思っていますが、それにしても、六団体のガバナンス問題は、やはりありますね。
 その後、ある友人から、私と同じような指摘を片山善博慶応義塾大学教授が、参議院の参考人質疑で言っていたと教えてくれたので、そこの部分を引用させていただきます。

 参議院 総務委員会 平成22年4月16日 第13号
 「○参考人 慶應義塾大学法学部政治学科教授  片山 善博君
二つ目の国と地方の協議の場に関する法律案ですが、これは私は反対であります。私は知事をやっておりまして全国知事会にも属しておりましたけれども、あえてこの法案には反対であります。これは民主党の皆さんがマニフェストに書く書かないで去年議論をされていたときも私は明確に反対の意思をしかるべくお伝えしておきましたけれども、残念ながら入ってしまったということです。
 (中略)
 地方六団体というのは、大体いつも決議をしたりして、いろんなことを政府に要求されます。どんなことを要求するかというと、権限を移譲しなさい、関与をなくしなさい、地方交付税を増やしてください、地方消費税をもっと分け前を増やしてくださいというようなことです。こういうのを要求するというのは、これは政治学では一般には圧力団体というんです。プレッシャーグループです。プレッシャーグループと政府が法律上協議の場を設けるって、これは非常に珍妙なことであります。プレッシャーグループはあっていいんです。政治に対してアクセスをし働きかけるというのはあっていいですけれども、わざわざその圧力団体と政府とが法律上協議をしなければいけない。なおかつ、そこに参加した人はその結果を尊重しなければいけないというのはどういうことなのか、非常に不可解で私はなりません。
 もう一つ、地方六団体は天下り団体です。総務省の天下り団体です。ちょっと言いにくい面もありますが、ずっと代々もう例外なく総務省の官僚OBの皆さんが事務総長に座っております、現在もそうであります。一方、今、民主党政権はこの天下り団体に対して、その見直しを積極的に進められておられます。来週からは行政刷新会議の下で独立行政法人の見直しも、事業仕分も始まります。ここでの焦点は、いかに天下りを解体するかということのはずであります。そういう時期に、何ゆえに、れっきとした堂々たる天下り団体を政府の協議相手として法律に位置付けるのか。私はどうもダブルスタンダードではないかと思うのであります。こんなことは絶対やめられるべきだと思います。(後略)」

 私も、所沢市議会事務局も、市議会議長会には、何か議事運営で分からないことなどがあると懇切丁寧に教えていただいたり、大変お世話になっていますし、こういった団体の必要性は感じています。
 しかし、実際に、たとえば埼玉県の市議会議長会長も、各ブロックごとの長も持ち回りて決めています。
 こういう団体を国の正式の協議相手とするのは、ちょっと民主主義的な手続きから言えば違和感を感じざるを得ません。もし、協議相手とするなら、少なくとも主だった役員は、議長のなかから選挙で選ぶ必要があるし、当然候補者はなんらかのマニフェストを掲げていただきたいと思います。

 それに、よくわかりませんが、必要もないのに、毎年市議会議員手帳というのが配布されます。市議会議長会には所沢市も負担金を支出している見返りかもしれませんが、こういう手帳も希望者だけにしていただきたいですね。結局は市民の税金なんですから。

 他の、佐々木先生や御厨先生のお話もおもしろかったのですが、とりあえず、逢坂氏への質問とその回答を中心に報告させていただきました。

 

2010年05月13日

 地方自治経営学会研究大会 河村市長講演について①

 河村たかし名古屋市長の講演を聴いて

 本日、午前中は、北海道根室市の方々の議会改革についての視察に対応させていただき、午後は、地方自治経営学会に参加してきました。

 その中で、講師の一人として河村たかし名古屋市長が講演されました。
 主に、減税についてそれがなぜ必要かが中心的な話題でした。
 河村氏によれば、まずはじめに減税ありきで、それによって行革を進めるべきとのことです。事業仕分けにも批判的で、仕分けで節約した財源を減税に回さずにほかの事業で使ってしまえば、仕分けの意味はない、との見解でした。

 また、政治の最大の役割の一つは減税にありとのことです。この点については、河村氏に指摘されるのを待つまでもなく、そもそも、以前、私もブログでかかせていただいたように、議会の嚆矢といわれる、英国の大憲章(マグナカルタ)でも国王の徴税権力の抑制が大憲章の大きな役割の一つとされています。

 自治基本条例は所沢のマグナカルタたりえるか

 ですので、確かにお役所を現代の王権に比すならば、まさに減税こそが本来的な政治の役割というのはわからないでもありません。

 ただ、以前書いたことと少し矛盾するのですが、当時の王様の徴税は、福祉はほとんど存在せず、存在したとしても、それはむしろ宗教、教会がその役割を果たしていたので、王侯貴族の享楽のために集められたという部分が大きく、税が再分配される割合は少なかったのではないでしょうか。ですから、まあ一方的に搾取される税だったわけです。
 ところが、現代はかつての家産制国家(王様が国家のすべての所有権を持つ。命までも。だから江戸時代も無礼打ちがあった)ではなく混合経済(経済活動が私的企業と政府によって行われているとスティグリッツも定義している)体制下にあるので、一概に税は、搾取とはいえず、むしろ現代の財政は、教科書的に説明するなら所得再分配機能や、純粋公共財提供機能、社会資本整備機能、経済政策機能に主眼が置かれており、むしろよりマクロな視点でみれば、社会保険的な色彩が色濃くなっています。ですから、スゥエーデンなどでは、戦争を100年以上していませんから、社会資本整備がだいたい終わって税金イコール福祉サービスの費用という状態が出現しています。ですからスゥエーデンにおいては、税金を取られるという感覚ではなく、むしろ保険費用という意識が強いという意見もあります。

 ですから、そもそもの議会制においては徴税権抑制が一義的な目的ではありますし、そういった意味で、私もブログでカリフォルニア州の州民が住民提案で成し遂げた「提案13号(プロポジション13)」と呼ばれるカリフォルニア州憲法改正提案を紹介したのですが、この提案が影響して、結局カリフォルニア州は財政危機に陥ってしまっているのもまた厳しい現実としてあるわけです。

 つづく

2010年05月10日

「総合計画」は議会の自治体経営ツール 講座に参加

 昨日、平成22年5月9日(日) 13時30分~16時30分まで開催された、議員力検定20120「春」講座の第3回、 「総合計画」は議会の自治体経営ツール に参加してきました。

 所沢市も、本年度12月議会への上程を目指して総合計画策定が進んでいます。特に、今回は、所沢市議会が、総合計画の基本構想だけでなく、基本計画についても、議決事項とした、初めての総合計画の審議が控えていることもあり、興味があり参加しました。

 コーディネーターは、議会改革についての意欲的な著作を発表されている山梨学院大学法学部教授 江藤 俊昭 氏
 また、ゲストがかつて多治見市長として、多治見モデルともいえる総合計画のひとつの理想形を提示した西寺雅也前市長が、多治見市の経験をお話しするということだったので、これも参加した理由の一つでした。
 多治見モデルを講座の説明分から引用すると
「総合計画のあり方を根本から見直し、実質的に「使える総合計画」をつくりあげ、政策全体をコントロールすることにとどまらず、行政全般について総合計画を基軸としてコントロールするとした。また、自治基本条例を制定し、総合計画とともに機能させることで、「自律自治体」を築く基盤をつくってきた。」ということだそうです。

 詳細は
 多治見市の総合計画
 をご参照ください。
 西寺前市長は、理学部数学科出身なので、こういう本当に使える作文ではない総合計画に形を整えていったのだと思います。私も、一応理系なので、こういう総合計画のつくりは好みです。

 残念ながら、所沢市の総合計画は素案をみるかぎりこういった形式のなのものはならないでしょう。

 当日の内容については別途議員力検定協会から報告があると思いますので、私がおもしろかった西寺氏のコメントだけご紹介すると、
 「財務部門は私のようにそよから来た人間には市長であってもなかなか財源を明らかにしようとしない。最後は、予算担当部長も、まったく財政にいたことのない人間を充てた」

 総合計画に乗せ忘れた事業の扱いについては
 「議会などで指摘を受けた場合は総合計画を修正する。大事なのはどういう手続きで修正するかをあきらかにしておくこと」

 「議会に、基本計画を議決事件にするよう働きかけたら断られた。責任をとりたくないというのがその理由のようだ」

 「市長選の対立候補がマニフェストを作成する際に、マニフェスト作成のための情報を求められれば市が積極的に開示することとした。(例えば先生の数を増やす場合どれだけの費用増となるか)」

 さらにご興味のある方は、月刊ガバナンス2010年4月号の特集「岐路にたつ「総合計画」」をご覧ください。西寺氏と江藤氏の寄稿文が掲載されています。

2010年05月02日

 事業仕分け見学について(UR都市機構)①

 4月26日に行われた事業仕分けを見学に行きました。
 しかし、残念ながら仕分け会場には入ることができず、すごすごと帰ってきました。
 昨年11月に行われた仕分けは、体育館のような広い会場でしたから、すぐに入れました。
 今回は東京駅至近のオフィスビルでした。

 仕分け会場を調べるために、行政刷新会議のホームページを見たところ、会場地図はトップページには記載されておらず、なかなか見つけることができませんでした。
 積極的に会場の情報が開示されていないということで、あまり会場への見学を歓迎していない意図を感じてしまいました。実際には、インターネット中継も充実していることはわかっていたし、昨年の仕分けをみた経験からも、現地で見るより、インターネット中継の方が、聞き取りやすいことも知っていました。
 なので、まあ、インターネット中継見てればいいかな、とも思ったのですが、やはり現地現場主義。見に行くことにしました。
 見学の目的はUR都市機構の仕分けを直に見届けることでした。なにしろ、私もUR(かつての公団、以下「公団」)の店子だからです。大家がどうなるかは、自分の生活に直結する話題です。
 国家の財政を考えれば、確かにURを民間に売る方がいいのは理屈としてはわかりますが、現実に居住者にとっては「はいそうですか」と簡単には納得できません。
 公団だからといって、特に私のような建て替えた後の公団に入った居住者は、特に周辺と比べて格段に安い家賃ということではありません。(62㎡ 11万円)
 しかし、公団というとどうしてもかつての安く住めるというイメージが先に立ち、なにか特権を享受しているような印象を持たれがちです。いずれにせよ、仕分け人が、そうした点も含めて、実態についてどれくらい知っていて、質問をするかを確認したかったというのが、仕分けに関心を持った大きな理由です。

 会場に入るために会場1階で待っていました。その間に、ワーキンググループB会場の中継を大画面テレビで生中継していました。本当は、グループAを中継してほしかったのですが、仕方なく、グループBの仕分けを見ながら入場を待っていました。

 これは、仕分け全般に言えることですが、仕分け人はあまりよく実態を知らない印象です。そうでないと仕分けができないという理屈もわからないでもありません。
 ただ、ちょっと聞いた範囲では、仕分け人はもしかして、「自分はよく知っている」という勘違いをしているのではないかと、不安に思いました。
 「自分はよく知らない」という自覚があって仕分けをやるのと、どう見ても、知らないことが明らかであるにもかかわらず、「知っているつもり」で仕分けをやることには、大きな隔たりがあると思います。

 なんで、お前こそ自信満々にそんなことが言えるのかといえば、ちょうど、たまたま科学技術研究関係の仕分けを中継しているところに出くわしたからです。
 そして、発言していたのが、私も少しその方の経歴を知っている方でした。その方ももちろん優秀な方です。しかし、科学研究については、おそらくご存知ないはずです。私も、理系なので、学部と大学院博士課程で、科学実験を実際に行い論文を書いた経験があります。
 別に、科学研究費にムダがないとは決して思ってませんが、しかし、その方の質問はちょっとピントがズレすぎていて、議論にならんだろ、という議論をふっかけていました。
 ちょっと、仕分けされる側が気の毒になりました。
 本当は、仕分け人も仕分けてもらう必要があるでしょう。そういう仕分け人オンブズマンみたいなことを勝手にやってくれる人がでてくるとおもしろいですね。評価の低い仕分け人は次回から参加を遠慮してもらうとか。

 まあ、ちょっと答えているおじさんたちもかわいそうな気もしましたが、その人たちも、逆の立場で、結構研究者の科学研究費の審査をキビシクやっていらしゃるんでしょうから、たまには同じような境遇を味わっていただいたことは大変結構なことだと思います。
 科学研究費の申請書というのが、これがまた、膨大な量の申請書を書かせるんです。それだけ書かせておきながら、最終的には学閥や人脈、門閥などですでに決まっていたりするということも聞いたことがあります。

 審査する側がこれだけプレゼン能力に乏しいことの方が、結構問題ですね。自分ができないことをあまり現場の研究者に要望しないでくれ、といったところでしょうか。

 結局のところ、日本の一応インテリとかエリートとか標榜されている方に欠けているのは、説得術としてのレトリックの能力なのではないでしょうか。この辺の事情は、林達夫と久野収氏の対談「思想のドラマツゥルギー」という対談集(平凡社ライブラリー) 十三 レトリック・イン・アクション の章に詳しくかかれているのですが、日本では、西洋から哲学が入ってきた際に、「レトリックは全く欠落してしまいました」(久野)。レトリックは詭弁と訳されてしまうと誤解を受けますが、たとえば、どのお役所の方も、言われるばかりで、全然反論能力が弱い印象です。そういう訓練もうけたことがないのでしょうから。一人ぐらいは、仕分け人をぎゃふんといわせるようなレトリックを駆使する方がいてもいいような気もするのですが。

 ちょっと否定的に書いてしまいましたが、仕分けそのものは、素人の仕分け人の存在も含めて私は大変意義のあることだと思っていますので、誤解なきようにお願いします。
 では、次回、仕分け人の評価とその評価に対する私の評価を報告します。