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生きる力を育むとはどういうことか(家庭新聞投稿)

先日、新民報に夏の特集号の原稿を提出したところ、家庭新聞からも依頼されました。それで、表記タイトルの一文を書いたのですが、他の方は、同じ原稿を提出されているようで、びっくりしました。何はともあれ、ご感想をくわけんまでお寄せください。
以下本文。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。最近は、生きる力を学ぶ、というのが義務教育におけるひとつの大きなテーマになっているらしい。特に、総合学習では、生きる力を育むことが主眼におかれているようだ。 では生きる力は、一般の教科学習で学べないのか?なぜ、生きる力を育むために総合学習なのか? もっと、根本的に問うとするなら、子供は、なぜ学校へ行って勉強する必要があるのか。  いろんな答えがあるだろうが、私が子供に説明するとしたら、「人にだまされず、自分を守るためである」、つまり生きる力を身につけるためだ、と答えるだろう。
 この豊かな日本では、なかなか意味がわからないだろうが、ちょっと開発途上国を旅して、めまいのするような貧富の差に直面した人なら、当たり前にわかるはずだ。 たとえば、私が訪れたインド洋に面した某国。農村部では、水汲みは女性の仕事である。ご多分に漏れずその国でも、食事の煮炊きや暖を取るために、あるいは茶畑を造成するために、森林を過剰に伐採している。森林がなくなれば、井戸は涸れる。かつては、歩いて10分のところにあった井戸がどんどん遠のき、今では片道2時間のところまで、水を汲みにいかなくてはいけない。日本である程度の基礎教育を受けた人なら、その理屈はわかるはすだ。   しかし、学問がない現地の女性は、森林を伐採するとなぜ井戸が涸れるか、その理屈がわからない。茶園の私の尋ねたある村では、文字の読めない女性のために、その理屈を紙芝居で教育していた。井戸を再生するためには、植林が必要だ。その因果関係を教育するのだ。そうして、初めて植林の重要性を理解することができる。  つまり、本来であれば、オーソドックスな教科教育そのものが実は生きる力を育む基礎なのだ。とはいっても、現実に世界でも有数の経済的豊かさを誇る日本では、教科学習と生きる力との関連が子供たちにとって、わかりにくいのが実態だろう。かくして屋上屋を重ねるように総合学習というものが登場したのかもしれない。
 なんでこんなことを言い出したかと言えば、バナナを食べていて、このバナナは、きわめて厳しい生活条件に置かれた農民が作っているのだ、とわが子に教えたときに、めずらしく色めきだって「そんなのうそでしょ」と答え返したからだ。わが子にとっては、そんな悲惨な状態は、お話だけの世界であって欲しいのだろう。 バナナや紅茶に養殖えび、某世界ブランドのスニーカー、これらの身近な商品も、わが子と同じ年代の子供たちが、家計を助けるために学校にもなかなか行けずに作られている可能性がかなり高い。学校に行けなければ、いつまでも安い賃労働に甘んじるしかない。ビートたけしの母も言っていたように、「貧乏の悪循環から脱出するには教育しかない」のだ。 日本の子供達は、学校に行けて勉強できるだけでもすごいことなのだが、言葉だけで説明しても、なかなか納得できないだろう。かくいう私も二十歳以降に世界を旅することで、やっとそのことを理解できたのだから。  現地へなかなか行けない以上、自分が働くために学校に行けなくなった状態を想像してみてもらうしかない。そうした状態を想像するのにうってつけの映画がある。「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督作品)だ。この映画では、少し無気力な少女「千尋」が、親と離れ離れになり、学校へも行けず働かざるを得ない状況に追い込まれることで、生来の「生きる力」を取り戻すというプロセスを描きだしている。そういった視点で、この映画を改めて見直すというのもひとつの方法かもしれない。
 つまるところ、いま日本の大人たちが子供たちに「生きる力」を得てもらうために必要なことは、「与えないということを与える」ということではないだろうか。テレビゲームを与えないということを与える、夜更かしを与えないことを与える、などなど。しかし、これだけモノと情報が溢れ返った日本で、これほど難しいこともない。大人が、というより私があふれるモノと情報のなかで溺れかかっているような状態なのだから。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

コメント

くわけんさんのお話、とても興味深いです。「生きる力」なんてたいそうなテーマですが、自分で考えて行動する、自分で考えた意見を言うことではないかと、私は考えます。子供に対しては、大人が先回りして与えないで、子供が自分で切り開いていく、それを大人は気長に待つことが必要ではないかと思います。大人がせっかちになったことも、子供に「与えすぎ」状態を作っている一因だと思います。ところで、こういう話は好きなので、講演会(討論会?)でも企画していただけると、喜んで参加しますよ。