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会派「翔」マニフェストの評価について③

従来の公約とマニフェスト、どこが違うの

 従来の公約とマニフェスト、一体何が違うのか。従来の公約を「選挙公約」、マニフェストを「政権公約」とするという考え方もあるようだ。しかし、マニフェストを「政権公約」としてしまうと、地方議会は、今のところ議員内閣制ではないので、議員マニフェストを「政権公約」としてしまうのは少し正確さに欠ける。
また、政党を基本とする会派は所沢市でも詳細な予算要求や公約集を作っていらっしゃる。私たちのマニフェストは、後ほどご紹介するが、16項目しかない。結論から先に言えば、マニフェストにあって公約にないものは、やはり「財源」が明記されているかどうかにあると考える。その点は、昨年の衆議院議員選挙の民主党マニフェストをみてもご理解いただけると思う。何をするかだけでなく、その財源をどうするか、についての記述がマニフェストの必須項目と考える。
 そして、この財源の推計というのが実はやっかいで、特に新人の候補者の場合は、ハードルが高い。当然現職議員にとっても、よほど意識していないと、なかなか正確な数値を算出できない。
 わが会派マニフェストでは、マニフェストのそれぞれの項目実現にかかる費用について、その財源確保策もセットで提案している点に特徴がある。

マニフェストの形式を巡る2つの考え方
マニフェストの形式について、前出の北川正恭教授によれば「体系的だった政策の期限、財源、数値を工程表付きで示し、選挙後、進捗率の事後検証ができる選挙公約のことである」と表現している。一方、山口二郎北海道大学教授はブログにおいて、「数値目標だの財源だのを過度に強調すれば、政治家が本来持つべき構想力が凋んでしまい、政治家は官僚の発想に近づくことになる」「マニフェストはあくまで資料であり、金科玉条にすべきではない」と主張している。 
国政選挙の場合の「野党の側からマニフェストを示す際には、正確な財源の見積もりは不可能である。」(山口二郎著「政権交代論」岩波新書)それほどこだわる必要はないのかもしれない。
一方で、これまでの公約のあり方を批判する側からは、財源の裏付けもない公約など、単なるウイッシュリスト(要望項目)に過ぎない。どうにでも解釈できる表現の公約だからこそ政策選択の選挙にならなかった。だからこそマニフェストは必要不可欠、という意見もある。
 私たちの会派内では、やはりマニフェストはウイッシュリストであっては無責任だという点で意見の一致をみた。私たちが作ったパンフレットには、「『財源』(未来の市政)に責任を持つ」ことを一番の優先順位とした。その点は、やはり国政の場合は、「政権公約」であるが、地方議会マニフェストの場合は、政権獲得を目的とするのではないので、「政策公約」といえるのではないか。だとするなら、政策に現実性と具体性を持たせる意味でも、やはり財源については必ず言及しておく必要がある。

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