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 事業仕分け見学について(UR都市機構)①

 4月26日に行われた事業仕分けを見学に行きました。
 しかし、残念ながら仕分け会場には入ることができず、すごすごと帰ってきました。
 昨年11月に行われた仕分けは、体育館のような広い会場でしたから、すぐに入れました。
 今回は東京駅至近のオフィスビルでした。

 仕分け会場を調べるために、行政刷新会議のホームページを見たところ、会場地図はトップページには記載されておらず、なかなか見つけることができませんでした。
 積極的に会場の情報が開示されていないということで、あまり会場への見学を歓迎していない意図を感じてしまいました。実際には、インターネット中継も充実していることはわかっていたし、昨年の仕分けをみた経験からも、現地で見るより、インターネット中継の方が、聞き取りやすいことも知っていました。
 なので、まあ、インターネット中継見てればいいかな、とも思ったのですが、やはり現地現場主義。見に行くことにしました。
 見学の目的はUR都市機構の仕分けを直に見届けることでした。なにしろ、私もUR(かつての公団、以下「公団」)の店子だからです。大家がどうなるかは、自分の生活に直結する話題です。
 国家の財政を考えれば、確かにURを民間に売る方がいいのは理屈としてはわかりますが、現実に居住者にとっては「はいそうですか」と簡単には納得できません。
 公団だからといって、特に私のような建て替えた後の公団に入った居住者は、特に周辺と比べて格段に安い家賃ということではありません。(62㎡ 11万円)
 しかし、公団というとどうしてもかつての安く住めるというイメージが先に立ち、なにか特権を享受しているような印象を持たれがちです。いずれにせよ、仕分け人が、そうした点も含めて、実態についてどれくらい知っていて、質問をするかを確認したかったというのが、仕分けに関心を持った大きな理由です。

 会場に入るために会場1階で待っていました。その間に、ワーキンググループB会場の中継を大画面テレビで生中継していました。本当は、グループAを中継してほしかったのですが、仕方なく、グループBの仕分けを見ながら入場を待っていました。

 これは、仕分け全般に言えることですが、仕分け人はあまりよく実態を知らない印象です。そうでないと仕分けができないという理屈もわからないでもありません。
 ただ、ちょっと聞いた範囲では、仕分け人はもしかして、「自分はよく知っている」という勘違いをしているのではないかと、不安に思いました。
 「自分はよく知らない」という自覚があって仕分けをやるのと、どう見ても、知らないことが明らかであるにもかかわらず、「知っているつもり」で仕分けをやることには、大きな隔たりがあると思います。

 なんで、お前こそ自信満々にそんなことが言えるのかといえば、ちょうど、たまたま科学技術研究関係の仕分けを中継しているところに出くわしたからです。
 そして、発言していたのが、私も少しその方の経歴を知っている方でした。その方ももちろん優秀な方です。しかし、科学研究については、おそらくご存知ないはずです。私も、理系なので、学部と大学院博士課程で、科学実験を実際に行い論文を書いた経験があります。
 別に、科学研究費にムダがないとは決して思ってませんが、しかし、その方の質問はちょっとピントがズレすぎていて、議論にならんだろ、という議論をふっかけていました。
 ちょっと、仕分けされる側が気の毒になりました。
 本当は、仕分け人も仕分けてもらう必要があるでしょう。そういう仕分け人オンブズマンみたいなことを勝手にやってくれる人がでてくるとおもしろいですね。評価の低い仕分け人は次回から参加を遠慮してもらうとか。

 まあ、ちょっと答えているおじさんたちもかわいそうな気もしましたが、その人たちも、逆の立場で、結構研究者の科学研究費の審査をキビシクやっていらしゃるんでしょうから、たまには同じような境遇を味わっていただいたことは大変結構なことだと思います。
 科学研究費の申請書というのが、これがまた、膨大な量の申請書を書かせるんです。それだけ書かせておきながら、最終的には学閥や人脈、門閥などですでに決まっていたりするということも聞いたことがあります。

 審査する側がこれだけプレゼン能力に乏しいことの方が、結構問題ですね。自分ができないことをあまり現場の研究者に要望しないでくれ、といったところでしょうか。

 結局のところ、日本の一応インテリとかエリートとか標榜されている方に欠けているのは、説得術としてのレトリックの能力なのではないでしょうか。この辺の事情は、林達夫と久野収氏の対談「思想のドラマツゥルギー」という対談集(平凡社ライブラリー) 十三 レトリック・イン・アクション の章に詳しくかかれているのですが、日本では、西洋から哲学が入ってきた際に、「レトリックは全く欠落してしまいました」(久野)。レトリックは詭弁と訳されてしまうと誤解を受けますが、たとえば、どのお役所の方も、言われるばかりで、全然反論能力が弱い印象です。そういう訓練もうけたことがないのでしょうから。一人ぐらいは、仕分け人をぎゃふんといわせるようなレトリックを駆使する方がいてもいいような気もするのですが。

 ちょっと否定的に書いてしまいましたが、仕分けそのものは、素人の仕分け人の存在も含めて私は大変意義のあることだと思っていますので、誤解なきようにお願いします。
 では、次回、仕分け人の評価とその評価に対する私の評価を報告します。
 

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