郷里の先輩 加藤建夫 所沢航空発祥100周年の夏を迎えて
私の郷里北海道旭川市は、旭山動物園で有名なのでご存じの方も多いだろう。その旭山動物園から歩いて30分ほどの場所に私の実家があり、今もありがたいことに父母共に健在である。
現在は町名地番変更で住居表示は変わったが、元々は、東旭川町上兵村という地名であった。上兵村という名称は、屯田兵が移住したことから名付けられた。残念なことに、こういう地名だと地価に影響するという声も多かったせいか、いまは、東旭川二条○丁目と、何か、都市的な匂いの住所に改悪されてしまった。
屯田兵とは、平時は農耕と開拓に従事しながら、戦時には、兵隊になるという制度で、当時の帝政ロシアの脅威に備えるために配備された。旭川は、3カ所の屯田兵村が配置された。その後、屯田兵が発展的に陸軍第7師団となる。旭川は、軍隊によって開拓の基盤が築かれたまちといえる。
屯田兵村の中心部には、神社が配置された。旭川神社である。私の実家から歩いて5分の場所に、旭川神社が鎮座している。隣接して、旭川兵村記念館がある。
この記念館には、屯田兵の入植当時の様々な資料が展示されている。また、当時の上川郡東旭川村上兵村出身の加藤建夫(歴史上の人物のため敬称略)とその父(日露戦争に従軍)についても展示されている。
加藤建夫といっても現在の日本の特に戦後生まれの世代では、ご存じの方は少ないだろう。しかし、所沢市内には、現役パイロットとしての加藤建夫をご存じの方が他の市に比べて多いことと思う。
なぜなら、加藤建夫が、パイロットとしての訓練を受け、さらには教官を務めたのがこの所沢であるからだ。第二次世界大戦時に活躍した陸軍のパイロットのほとんどは、所沢陸軍飛行学校に学んでいる。
加藤建夫もその例に漏れず、1926年(大正15年)6月、所沢陸軍飛行学校に第23期操縦学生として入校し、卒業時には技量成績優秀として恩賜の銀時計を賜った。
1928年(昭和3年)には 所沢陸軍飛行学校の教官に就任し、4年ほど教官を務めたようである。その後、1937年(昭和12年)10月26日には日中戦争に陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊の中隊長として初陣を飾り、航空部隊として初めて加藤中隊に感状(部隊感状)が授与されるなど活躍した。
陸軍飛行第64戦隊を率いて、昭和16年には、太平洋戦争開戦に伴い、マレー作戦に従事する第25軍(司令官・山下奉文中将)を乗せた輸送船団の海上空中護衛を夜間荒天の中成し遂げる。マレー半島の主要戦場は常に「隼」の制圧下となり、連合軍機は飛び立つこともままならず、ほとんどが地上で撃破されたという。1942年(昭和17年)、蘭印作戦におけるパレンバン空挺作戦では陸軍飛行第54戦隊とともに、加藤建夫の統一指揮のもとスマトラ島パレンバンの製油所に落下傘降下する陸軍第1挺進団挺進第2連隊を護衛・援護、同戦隊はハリケーン2機を撃墜し同作戦の大成功に貢献した。
最後は、インパール作戦支援に出動し、1942年(昭和17年)5月ベンガル湾にて散華した。(wikipedia「加藤建夫」より)
その活躍ぶりは、1944年製作の東宝映画「加藤隼戦闘隊」として映画化。ちょうど、近日発売された雑誌「歴史街道」平成23年8月号でも加藤建夫が特集されている。
しかし、敗戦によって、加藤建夫は歴史から消されていくこととなる。出生地旭川においても、郷里の英雄は、その居場所を失っていく。ただ、唯一、旭川兵村記念館にその事績を留めるのみとなる。
今年、所沢航空発祥100周年を迎えるが、所沢発祥100周年公式Webサイトを見ても、相変わらず、登場するのは、初めて空を飛んだ徳川大尉や、アンリ・ファルマン号である。
年表には、大正8年所沢陸軍航空学校の設立という重要な事実さえ無視されており、特に先の大戦時前後の記述は、歴史を早送りするかのように素っ気ない。加藤建夫を始め、この所沢で学んだパイロットは全く表舞台に登場しない。
改めて航空発祥記念館も確認したが、所沢陸軍飛行学校の存在が正面から取り上げられてはいない。ましてや、加藤建夫のことなど、一言も触れられていない。
所沢市史も同様である。むしろ、陸軍に土地を強制的に買収された話や、飛行場があったために空襲があったなど、被害者目線の記述が目に付く。
先の戦争については、様々な評価もあることは承知しているし、戦争はないほうがいいに決まっている。加藤建夫や陸軍飛行学校の存在を賛美せよというつもりはないが、初めて空を飛んだという事実だけに歴史を過度に重視し、それ以外の重要な事実を無視するというのは、私はいささか不満である。
少なくとも、所沢の航空史を語る上で、所沢陸軍飛行学校の存在は、その規模と歴史からいっても最も存在感が大きいはずだ。
戦後の巧みな世論形成により、戦争を起こしたのは、軍隊、中でも陸軍が悪いということになっているようで、東京裁判においても、A級戦犯のほとんどが陸軍の幹部である。(また、先日のNHKのテレビ番組でも、太平洋戦争については、陸軍は消極派で、海軍が積極派であり、それによって戦争終結が叶わなかったことが、みごとに説明されていた)
しかし、東京大学文学部教授の加藤陽子氏が実証的に語られているように「それでも日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)のである。私が直接聞いたのだから間違いないが、あの戦闘機「隼」を設計し、戦後の日本ロケット開発をペンシルロケット実験で先鞭をつけた、糸川英夫博士も「2・26事件」について拍手喝采を送っていたのである。
先の大戦について、誰か特定の人間に責任を押しつけたことが、自分は客観的な場所にいて、上から目線で物事を評論するという悪しき風潮を蔓延させたのではないだろうか。
ちょうど原子力発電について非難するがごとく。
陸軍であるというだけで、加藤建夫や加藤が操縦していた戦闘機「隼」の存在までもが、海軍の「零戦」や、海軍のパイロットに比べて、扱いが地味なような気がする。
おそらく、この所沢においても、航空発祥100周年を終えれば、さらに、加藤建夫も陸軍飛行学校の歴史もなかったことにされて、さらに忘却の彼方に押しやられて行くことと思う。
それにしても少し寂しい話である。加藤建夫の父も屯田兵として、日露戦争に出征し、加藤建夫が5才の時に奉天会戦で亡くなっている。親子2代に渡り、日本国の独立を確かなものとするために戦い、息子はそのパイロットとしての力量と、戦闘隊の類まれなリーダーシップによって、軍神とまでされながら、戦後にはパイロットとして学び教えたこの所沢においても、100周年にあたってその存在がなかったことにされてしまう。
郷里の後輩である私の責任として、航空発祥100周年に当たって、改めて加藤建夫について思いを巡らす夏にしたいと思う。