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2011年08月22日

郷里の先輩 加藤建夫 所沢航空発祥100周年の夏を迎えて

 私の郷里北海道旭川市は、旭山動物園で有名なのでご存じの方も多いだろう。その旭山動物園から歩いて30分ほどの場所に私の実家があり、今もありがたいことに父母共に健在である。

 現在は町名地番変更で住居表示は変わったが、元々は、東旭川町上兵村という地名であった。上兵村という名称は、屯田兵が移住したことから名付けられた。残念なことに、こういう地名だと地価に影響するという声も多かったせいか、いまは、東旭川二条○丁目と、何か、都市的な匂いの住所に改悪されてしまった。
 
 屯田兵とは、平時は農耕と開拓に従事しながら、戦時には、兵隊になるという制度で、当時の帝政ロシアの脅威に備えるために配備された。旭川は、3カ所の屯田兵村が配置された。その後、屯田兵が発展的に陸軍第7師団となる。旭川は、軍隊によって開拓の基盤が築かれたまちといえる。
屯田兵村の中心部には、神社が配置された。旭川神社である。私の実家から歩いて5分の場所に、旭川神社が鎮座している。隣接して、旭川兵村記念館がある。
 この記念館には、屯田兵の入植当時の様々な資料が展示されている。また、当時の上川郡東旭川村上兵村出身の加藤建夫(歴史上の人物のため敬称略)とその父(日露戦争に従軍)についても展示されている。
  加藤建夫といっても現在の日本の特に戦後生まれの世代では、ご存じの方は少ないだろう。しかし、所沢市内には、現役パイロットとしての加藤建夫をご存じの方が他の市に比べて多いことと思う。
 なぜなら、加藤建夫が、パイロットとしての訓練を受け、さらには教官を務めたのがこの所沢であるからだ。第二次世界大戦時に活躍した陸軍のパイロットのほとんどは、所沢陸軍飛行学校に学んでいる。

 加藤建夫もその例に漏れず、1926年(大正15年)6月、所沢陸軍飛行学校に第23期操縦学生として入校し、卒業時には技量成績優秀として恩賜の銀時計を賜った。
 1928年(昭和3年)には 所沢陸軍飛行学校の教官に就任し、4年ほど教官を務めたようである。その後、1937年(昭和12年)10月26日には日中戦争に陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊の中隊長として初陣を飾り、航空部隊として初めて加藤中隊に感状(部隊感状)が授与されるなど活躍した。
 陸軍飛行第64戦隊を率いて、昭和16年には、太平洋戦争開戦に伴い、マレー作戦に従事する第25軍(司令官・山下奉文中将)を乗せた輸送船団の海上空中護衛を夜間荒天の中成し遂げる。マレー半島の主要戦場は常に「隼」の制圧下となり、連合軍機は飛び立つこともままならず、ほとんどが地上で撃破されたという。1942年(昭和17年)、蘭印作戦におけるパレンバン空挺作戦では陸軍飛行第54戦隊とともに、加藤建夫の統一指揮のもとスマトラ島パレンバンの製油所に落下傘降下する陸軍第1挺進団挺進第2連隊を護衛・援護、同戦隊はハリケーン2機を撃墜し同作戦の大成功に貢献した。
 最後は、インパール作戦支援に出動し、1942年(昭和17年)5月ベンガル湾にて散華した。(wikipedia「加藤建夫」より)
 その活躍ぶりは、1944年製作の東宝映画「加藤隼戦闘隊」として映画化。ちょうど、近日発売された雑誌「歴史街道」平成23年8月号でも加藤建夫が特集されている。

 しかし、敗戦によって、加藤建夫は歴史から消されていくこととなる。出生地旭川においても、郷里の英雄は、その居場所を失っていく。ただ、唯一、旭川兵村記念館にその事績を留めるのみとなる。
 今年、所沢航空発祥100周年を迎えるが、所沢発祥100周年公式Webサイトを見ても、相変わらず、登場するのは、初めて空を飛んだ徳川大尉や、アンリ・ファルマン号である。

 年表には、大正8年所沢陸軍航空学校の設立という重要な事実さえ無視されており、特に先の大戦時前後の記述は、歴史を早送りするかのように素っ気ない。加藤建夫を始め、この所沢で学んだパイロットは全く表舞台に登場しない。
 改めて航空発祥記念館も確認したが、所沢陸軍飛行学校の存在が正面から取り上げられてはいない。ましてや、加藤建夫のことなど、一言も触れられていない。
 所沢市史も同様である。むしろ、陸軍に土地を強制的に買収された話や、飛行場があったために空襲があったなど、被害者目線の記述が目に付く。
 先の戦争については、様々な評価もあることは承知しているし、戦争はないほうがいいに決まっている。加藤建夫や陸軍飛行学校の存在を賛美せよというつもりはないが、初めて空を飛んだという事実だけに歴史を過度に重視し、それ以外の重要な事実を無視するというのは、私はいささか不満である。
 少なくとも、所沢の航空史を語る上で、所沢陸軍飛行学校の存在は、その規模と歴史からいっても最も存在感が大きいはずだ。
 戦後の巧みな世論形成により、戦争を起こしたのは、軍隊、中でも陸軍が悪いということになっているようで、東京裁判においても、A級戦犯のほとんどが陸軍の幹部である。(また、先日のNHKのテレビ番組でも、太平洋戦争については、陸軍は消極派で、海軍が積極派であり、それによって戦争終結が叶わなかったことが、みごとに説明されていた)
 しかし、東京大学文学部教授の加藤陽子氏が実証的に語られているように「それでも日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)のである。私が直接聞いたのだから間違いないが、あの戦闘機「隼」を設計し、戦後の日本ロケット開発をペンシルロケット実験で先鞭をつけた、糸川英夫博士も「2・26事件」について拍手喝采を送っていたのである。
 先の大戦について、誰か特定の人間に責任を押しつけたことが、自分は客観的な場所にいて、上から目線で物事を評論するという悪しき風潮を蔓延させたのではないだろうか。
 ちょうど原子力発電について非難するがごとく。
陸軍であるというだけで、加藤建夫や加藤が操縦していた戦闘機「隼」の存在までもが、海軍の「零戦」や、海軍のパイロットに比べて、扱いが地味なような気がする。
 おそらく、この所沢においても、航空発祥100周年を終えれば、さらに、加藤建夫も陸軍飛行学校の歴史もなかったことにされて、さらに忘却の彼方に押しやられて行くことと思う。

 それにしても少し寂しい話である。加藤建夫の父も屯田兵として、日露戦争に出征し、加藤建夫が5才の時に奉天会戦で亡くなっている。親子2代に渡り、日本国の独立を確かなものとするために戦い、息子はそのパイロットとしての力量と、戦闘隊の類まれなリーダーシップによって、軍神とまでされながら、戦後にはパイロットとして学び教えたこの所沢においても、100周年にあたってその存在がなかったことにされてしまう。
 
 郷里の後輩である私の責任として、航空発祥100周年に当たって、改めて加藤建夫について思いを巡らす夏にしたいと思う。

2011年08月15日

2011.06  一般質問⑥ 発達障碍支援(中学通級)について

くわけん 所沢市における、発達障碍に向けての中学校通級のついてはどうなっているのか?

平塚学校教育部長 平成22年度に立ち上げる方向で計画を進めていた。しかし、国の予算措置の縮小などにより、ほとんどの市町村で新規の通級指導教室設置が認められなかった。
今後も引き続き要望していく。

くわけん 入間市・狭山市に中学校の通級があるが、所沢市に設置が認められない以上、通級が可能なのか?
平塚学校教育部長 自市の生徒が最優先であり、指導人数に余裕があったとしても、特例を認めるとその後の対応が難しくなるという理由などから、現在受け入れは認めていないという状況。


くわけん 現在、中学校で、通級指導を必要としている生徒に関して、どのような対応をしているのか?

平塚学校教育部長 今後も通級設置にむけて県に要望していく。そのほか、通級指導教室を必要とされる生徒については、一つ目は特別支援学校のセンター的機能を活用した支援。特別支援学校の教員が特別な配慮が必要な生徒への行動観察及び指導、助言を行うというもの。二つ目は、教育センターによる教育相談等を活用した支援。今年度より、そのような生徒を対象にしたサマースクール等の取組も計画。三つ目は埼玉県が研究をしている特別支援学級の弾力的運用の活用としての支援。


くわけん 特別支援学校による指導とは、先生にきていただくということなのか、それとも通級を希望される方が支援学校に行って、支援を受けるということか?

平塚学校教育部長 いわゆる支援席学習の一環。学校長等の判断の問題とか様々な条件があるので、そういう点について確認し、検討しながら進めたい

2011.06  一般質問⑤政策決定過程における市民参加による原案の扱いについて

先日の脇議員の質問でも少し触れられていたが、現在進められているみどりの基本計画の作成過程において、びっくりするようなことが起こった。審議会に断りもなく、北秋津保全配慮地区がすっぽり削除されてパブリックコメントに掲載されたのだ。
確かに、審議会では「庁内調整」をすませた後、掲載するとなっていたようである。
もちろん、原理的に言えば、行政権を有するのは執行機関である市長であり、審議会はあくまでも市長の諮問機関であり、その諮問を聞くかどうかは公選職である市長の判断にかかっている。
同じようなことは以前にも、自治基本条例の策定過程でも起こっている。先日の自治基本条例のシンポジウムにおいても市長はこのことに間接的にふれ、市職員も育てていただいたと言ったではないか。結局、今回同じような事を起こしたことで組織としての学習効果に疑問を感じている。

くわけん 自治基本条例策定過程における、市民委員の方々の素案をやはり修正して、パブリックコメントとして出そうとした経緯と、なぜそのようなことが起こったのかの説明を願いたい。
大舘総合政策部長 市の素案として公表するに当たっては、より多くの皆様に向けて発信するという市の責任もあるため、市の内部的検討によって精査して、必要箇所については修正を行った。事前に修正する場合があることについて市民検討委員会の皆様には説明したが、少なくともパブリックコメントの前日には修正後のパブリックコメント案を示すということにしていたが、精査に時間を要したためできなかった。
市が修正した部分は、素案の趣旨を変更しない程度のものに限定したつもりだったが、結果として市民検討委員会と理解が異なっていた。
パブリックコメントの実施にあたっては、条例素案が市民検討委員会の合意を得たものととらえられかねない表現もあったことも、市民検討委員会の納得が得られなかった点。
市民検討委員会の皆様には大変申し訳なく思っている。

くわけん 市長に、今回のみどりの基本計画をパブリックコメントとして公表する前に、調整会議ではどのような議論が行われたのか?
当麻市長 4月19日に行われた平成23年度第2回政策会議において、環境クリーン部から発議事項として提案。その際、各部から様々な意見と質問を受けた。この中で、北秋津周辺保全配慮地区について、街づくり計画部より、まちづくり事業との関係が深いことから、その記載方法について協議した旨の意見が出た。

 くわけん まちづくりに なぜ、こんな遅くまで部としての見解をしっかり表明しなかったのか?
 新堀街づくり計画部長 北秋津地区は、埼玉県の政策で、昭和59年12月に暫定市街化調整区域に指定され、土地区画整理事業を基本に市街化区域再編入に向けて取り組んできた。現在、県の第6次線引き見直し作業を行っている最中であることから、県との調整、地元で相続発生など、地権者によるまちづくり研究会が立ち上がっており、地権者の動向などを考慮する必要がある。
 市では、第5次総合計画に今後4年間に重点的に取り組む事業として位置づけている。慎重に対応することが必要であったことから、表現方法について協議を重ねていた。結果的にもう少し綿密な調整が必要であった。
 
くわけん 市長としては、現在協議中となっているこの北秋津についてどういう扱いをしていくのか?
当麻市長 北秋津周辺の樹林については、柳瀬川の段丘崖や西武池袋線沿いに一体のまとまった緑が残されている。この緑については、市街地に隣接し、多くの市民の方が散策等を楽しんでいる貴重な緑と認識。みどりの基本計画において、ご指摘の保全配慮地区に位置づけ、その重要性を明記しておくことが必要と考えている。
 一方、当該地区において、市と地元の方々によるまちづくり事業が検討されていることでもあるので、これを踏まえ緑の保全手法について検討していきたい。
 

 くわけん 市長に 今後は、市民参加で作成した素案を庁内調整で修正する場合には、もっと丁寧な手続きが必要であるし、基本的には原案を尊重するということではないのか。また、そうでなければ、自治基本条例の立法趣旨に著しく背くことになるのでないのか?

当麻市長 7月1日から自治基本条例が施行になる。来年度、住民の皆さんとの参加条例の素案づくりにも着手する予定になっているので、自治基本条例の趣旨については市役所の職員が十分、その意味するところを理解して、住民の皆さんの信頼を損なうことのないように配慮していくという必要性を痛感している。

2011.06  一般質問④ 富士山噴火への対応

東北大地震によって、地下のエネルギーが放出されたことにより、東北地方においては、余震の心配は残るものの、3・11以上の震災の心配は薄らいでいる。一方で、地震学者は、巨大地震と富士山の噴火の連動との関係性を指摘している。京都大学の鎌田教授によれば、過去にも大地震後に富士山が噴火する可能性が多く、一番近い例では、1707年の宝永の大噴火は、宝永地震の実に49日後に起こったとのことで、富士山噴火の可能性はさらに高まったとのことである。
 実際に、この鎌田先生の著書によれば、もし富士山大噴火が起こった場合は、所沢にも火山灰が降ることが予測されている。降灰量は、2cm~10cmの範囲にすっぽり入っている。鹿児島市と違って、火山灰の降灰に慣れていないため、様々な被害が予想される。
 ライフラインで言えば最も心配なのが、上水道である。「火山灰被害を軽減するために」という筑波大学大学院システム情報工学研究科都市防災研究室で発行しているこのパンフレットにも、「降灰によって断水することも考えられます」。また、「水道に多くの灰が入ってしまうこともあり得ます」ともあります。こちらの雑誌ニュートンでも同じような記事が掲載されています。
くわけん 埼玉県の大久保浄水場もこの2cm~10cmの範囲に入っている。大久保浄水場の噴火による火山灰対策はどうなっているのか?浄水場に屋根はあるのか?
青木水道部長 大久保浄水場については、開放水面に屋根等は設置されていない。

くわけん 所沢市の浄水場の対策はどうなっているのか?
青木下水道部長 開放水面については密閉状態になっている。
くわけん もし、埼玉県からの水道の供給が滞った場合は、所沢市の地下水で対応することになると思うが、現在は、1万トン、1日の消費量の約10%まかなっているが、どこまで供給を増やすことができるのか?
青木水道部長 地下水の回復状況を見ながらの取水となるが、所沢市のポンプを最大限稼働させた場合、一日あたりおよそ34,000立方メートルの取水が可能

だいたい、34%ぐらいの供給率ということですね。
浄水問題も深刻だが、降灰の処理も問題である。72平方キロに対して、約5センチ積もった場合、全体で約360万立方メートル、市街化区域に限っても130万立方メートルの灰が降ることになる。灰は雪と違って溶けない。
これだけの灰の処理となると大変なことになる。

くわけん 現状の地域防災計画によれば、この灰の処理はどのように行われるのか?
鈴木危機管理担当理事 現状の地域防災計画には、火山灰処理についての記載はない。災害廃棄物は一時的に北の運動場、それかた北中運動場に保管することになる。その後の最終処分方法は未定。

くわけん 地域防災計画では、富士山噴火は全く想定にはないようだが、今回の計画改定にあたっては富士山噴火のケースも含めるべきではないか?
鈴木危機管理担当理事 降灰による処理量も大変膨大なものになる可能性が大きい。担当部署とも協議して検討したい。市民に対しても火山灰について注視しなければならない情報の提供を検討したい。

2011.06  一般質問③ 防災教育の充実

今回、釜石の奇跡と呼ばれる、見事な防災対応を示したのが、釜石市。ほぼ99%の児童生徒が生き残った、
群馬大学の先生が、熱心に防災教育に取り組んできた成果かと思う。
ここで、改めて、所沢市のケースに当てはめて考えてみる。幸いにして、所沢市は、津波の被害も想定しにくいし、過去にも大きな災害に見舞われたというケースが少ない。
もちろん、避難訓練もしっかりと行われていることかと思う。
しかし、釜石のケースでも「津波てんでんこ」といって、津波が起きたらまとまって逃げるのではなく、みなばらばらになって逃げた方がよいという教育がなされてきた。
つまり、常に児童や生徒が災害に対して自主的に判断できるための教育を行ってきたという事だと思う。

災害は、常に在校時に起こるとは限らない。となると、避難訓練させしておけばいいというのは、きわめて、消極的かつ責任逃れの発想であり、所沢で起こる可能性のある災害に対して、個々人としての対処法をしっかり教育していく必要があると考える。

くわけん 現状においては、学校教育のカリキュラムの中で、災害に対する教育を行っているのか?
平塚学校教育部長 「自分の身は自分で守る」を目的に休み時間に発生した地震を想定しての非難訓練も実施。教育計画にも位置づけている。学級活動では県の小学校校長会と安全教育研究協議会が編集した「安全な暮らし」を利用して学んでいる。1~4年までは地震に対する対応、5年は津波の危険、6年では放射能や幼い子どもの支援、ボランティアについて触れている。
くわけん 例えば、後ほど質問する、富士山の噴火など所沢で発生が予想される災害に対する教育を行うことを研究する必要性を感じているか?
平塚学校教育部長 地域の実態や特性を踏まえた災害に対する教育のあり方をさらに研究していくよう働きかけていく。

2011.06  一般質問② 保護者帰宅困難時の子ども対応は?

3月11日は、この所沢市においても、停電や電車の普通によって混乱が生じた。特に深刻だったのが、帰宅困難者が多数発生したこと。
私も、いち早く帰宅困難者対策に議会でも警鐘を鳴らしてきたところ。
例えば、平成17年9月議会。しかし、この時にすっかりわすれていたのが、保護される側の子どもたちへの対応。実際にその後に策定した、地域防災計画にも、帰宅困難者の項目が書き込まれたが、やはり所沢に残された子ども達への対応については、なんら記されていない。
そして、実際に、3月11日を迎えたが、やはりというか、多くの問題があったと認識している。
私の知り合いのMさんは、ちょうど浦和で仕事の研修を受けていて、帰れなくなってしまった。ご主人も出張中とのことであり、また身近に親族もいらっしゃらないので、なんとかご近隣の方に預かってもらい、深夜1時にようやく帰宅できた。
地震発生時は、ちょうど時間帯が低学年の帰宅時間だった。
そこで質問。所沢のそれぞれの放課後を見守る組織はどのように対応したのか?
くわけん 教育長に、小学校と放課後ところはそれぞれどういう対応をとったのか?
  生活クラブいわゆる市営の学童に行かせずそのまま下校させた学校もあると聞いている。どういう判断でそうしたのか?
佐藤教育長 多くの学校が集団で一斉に下校した。ほうかごところ実施校10校の対応は、低学年がほうかごところに参加しているときに地震が発生し、急遽、他の学年と一緒に下校したのが5校、時間を延長して保護者に引き渡したのが2校、一斉下校のため、解説しなかったところが1校。
 生活クラブに行かせずに下校した学校は、子どもの安否を心配して駆けつけた保護者が多く、地域別に保護者と教職員を一緒に下校させた。


くわけん 所沢市ができてから震度5以上が実際にあったことはあるか?
鈴木危機管理担当理事 ない

実際に、地域防災計画の学校の項目を見ると、震度6以上で、警戒宣言が発令された場合の想定となっている。

くわけん 部長に、所沢市の生活クラブや民間の学童保育はどういう対応だったのか?
保育園はどういう対応だったのか?

仲こども未来部長 児童の下校中であったり、授業中であったり、状況は異なる。既に児童が登室している生活クラブ及び児童クラブは安全確保を再優先に対応。登室していない場合については、学校と連絡をとりあって、先生が送ってきたケース、指導員がお迎えにいったケースなどがあった。登室後は、早急に保護者へ迎えにくるまで預かる旨連絡。最も遅い時間に保護者のお迎えがあったのが、生活クラブでは午後9時30分、児童クラブでは午前0時。保育園については、公立保育園については、ほとんどの保育園で午後8時を越えて保育を実施。最も遅い時刻まで対応したのは、翌朝7時30分まで。民間保育園についてはも、同様の対応。翌朝6時30分までの対応があった。

くわけん 今回の帰宅困難者発生時の子どもへの対応について、実態をとりまとめて今後の対策を考えるべきではないか
仲こども未来部長 保育園や児童クラブ等は保護者がお迎えに来るまで責任を持って子どもをあずかるのが、帰宅困難時の最も大切な対応。
 各施設から地震対応の報告を取りまとめ課題を整理したところ、震災発生時に真っ先に必要なものは保護者への被災状況の情報伝達。発生直後に迅速な対応ができるようところざわほっとメールによる情報発信を開始した。
 また、現在施設と保護者及び学校等の関係機関との連絡体制なども含めたマニュアルの整備を進めている。
くわけん 市長に どうですか?子育てするなら所沢といいますが、これでは安心して子育てできないじゃないですか?市長のご感想をお聞かせ下さい。
当麻市長 保護者との連絡がとれず不安な時間を過ごした児童・生徒がいたことは事実。停電や交通機関の普通など、保護者の方が長時間にわたって帰宅困難者となることが発生直後に想定できなかったことが不安を招いた原因。
今回の震災対応で、地域防災計画の不備な面が多々見受けられた。

市民と議員の条例づくり交流会議2011で所沢市議会の事例を報告しました

平成23年7月31日、くわけんも会員となっている、市民と議員の条例づくり交流会議2011で報告の機会をいただきました。テーマは自治基本条例と議会の関わり。第一分科会「市民の議会をどうつくる?」 での報告です。

以下、レジュメです。

「自治基本条例の審議過程における市民と議会との対話」

所沢市議会議員 桑畠健也

自治基本条例は所沢市議会から始まった
平成17年から、議会が「まちづくり基本条例に関する特別委員会」を設置
条例骨子案を含む、提言を発表
市民主導のPI(パブリック・インボルブメント)による素案づくりを要請
 
議会基本条例の制定が先行
 所沢市議会では、自治基本条例制定に先んじて議会基本条例を平成20年に制定
 議会基本条例制定にあたっても市民との対話を通じて議会原案を修正
 議会基本条例に、意見提案手続き、公聴会の活用、議会報告会の開催などを盛り込む
 議会基本条例制定過程においても、上記3つを実施
 議会のあり方については、市民参加を経て定義

市民参加による自治基本条例原案の策定
平成21年、現市長マニフェストに自治基本条例の制定を掲げる。
公募市民の市民委員による条例制定委員会が中心となって原案の作成
PIを約60回開催、約1年半にわたる審議により、自治基本条例原案が完成
執行部による若干の修正を経て、平成22年第3回9月定例会に提案


議会としての修正をいかに実現するか
 当初は、総務常任委員会に付託するが、議論が停滞
 自治基本条例特別委員会を創設し、付託替え
 早速、執行部の条例検討委員会委員長を参考人聴取
 運営指針と工程表の作成
 修正提案についての定型書式を用意し、各会派から提案を一括表に集約
 議会基本条例制定と同様の日程で、市民意見聴取の実施
 
全面的な原案修正に 
 自治基本条例の必要性についても問われる
主な論点は、①最高規範性、②議会条項の扱い、③語句の定義の整理
原案を各会派提案に基づき修正素案作成、さらに修正素案について会派提案で再修正
手付かずの条文は、全34条(原案)中(市長の責務)の条項のみ
 1章を全面削除し、全体は、34条から31条に
 前文も大幅に修正
 外国籍住民の投票権以外はすんなり決まった住民投票条項
 
議会修正案に対する市民との対話
 特に、条例原案制定に関わった市民から不満
 意見提案手続には、29名133件の意見
 公聴会は、9名が公述人に
 議会修正案を報告する議会報告会には、41名が参加
 議会報告会では、双方向での議論を実施
市民との対話を通じての再修正に至らず
ただし、委員会中の傍聴者からの意見を元に1項目追加
条例制定に関わった市民有志と各会派との話し合いも別途実施される


代表制民主主義だからこそ、丁寧な対話が重要
 全面公開の場で各会派が修正提案とその理由を披瀝
 審議過程も全面公開
 最終的に、市民の意見聴取に基づく修正は無し
 しかし、徹底した議論を行ったことで、一定の理解が得られた様に思う


 質疑は正直、あまりいただけませんでした。特に議員からの質問はゼロでしたので、残念でした。


2011年08月04日

2011.06  一般質問① 大震災と下水道

選挙も終わって、仙台に、ボランティアに行ってきた。津波にあった農家の農地から、
流れてきたがれきやゴミなどを取り除く作業を行った。
 ちょうど、作業を行った場所が宮城野区であり、その現場からほど近いところに仙台市の南蒲生浄化センターという仙台市のほぼ中心部の汚水を処理する下水道終末処理場があり、また、一緒にボランティアを行った方仙台市在住の方が、下水道に詳しいかたで、仙台市の下水道の現状について教えていただいた。その方によると、処理場は大電力を必要とし、処理場のために送電する鉄塔が崩れたため、当分は、復旧しないとのことでした。6月20日現在、仙台市のホームページを見ても、やはり完全復旧には3年かかるということで、いまは、かろうじて簡易処理による放水、沈殿処理を行うのが精一杯とのことでした。
そこで、心配になったのが、荒川右岸流域下水処理場の抱える震災リスクである。
いま、所沢市では、着々と、流域下水道への切り替え準備が進んでいるが、もし、荒川右岸が震災などにより何らかの被害を受けた場合、影響は大きい。原子力発電と一緒で、システムが大規模化すればするほど、コストは一見安くなるように見えるが、一旦事が生じた場合の修復コストは、大きく、結局数十年単位で見た場合、本当にコストが安いかどうかは怪しい。
 荒川右岸で最も心配される被害は、やはり津波である。

くわけん    荒川右岸の標高は何mか?
粕谷下水道部長 約5メートル。
くわけん 標高がそれだけ低いと、もし東京湾に津波が起こった場合、被害が及ぶ可能性があるのではないか?そういった備えはされているのか?
粕谷下水道部長 新河岸川水循環センターに聞いたところ、現在津波については想定していない。耐震対策は今年度中に耐震診断は終了。

くわけん 続いて心配なのが、直下型の地震による、所沢市における下水道菅の破損と、送電線の破損である。こうしたことに特に幹線については十分な備えがなされているのか?
粕谷下水道部長 埼玉県が設置する荒川右岸流域下水道柳瀬幹線については今年度中に耐震診断が終了。平成25年度から耐震対策工事が開始。市32㎞の幹線は、平成21年度~29年度までの9年間で、下水道総合地震対策計画を策定し、重要部分を平成29年度までにやっていく。
くわけん また、所沢市内で、下水のポンプアップを何カ所ぐらいで行っているのか?
今回の停電で、ポンプアップに支障は無かったのか?
粕谷下水道部長 所沢市内の20のポンプ場のうち、10ヶ所が計画停電に遭遇。10ヶ所のうち下水管に滞留もしくはポンプ槽に貯留して対応できたものと、それでは対応できず実際にバキューム車等によりくみ取りを行ったり、発電機で切り替えをして対処した。

くわけん 今後のことを考えると、所沢市の下水処理浄化センターを残存させて、流域下水道が万が一利用不能になった場合には、最低限沈殿処理ぐらいはできるように温存しておくべきではないか?
粕谷下水道部長 平成24年度に全面的に接続予定。災害対策用での存続は考えていないが、下水処理浄化センターの跡地利用が未確定で、解体費も多額にかかり、早急に解体できない状況。万が一、新河岸川水循環センターが使用不能となった場合には、浄化センターの施設の中で、どの施設が被災対策としてりようできるかについて少し調べたい。
くわけん 温存しておく場合の費用概算は?
粕谷下水道部長 電気料だけでいえば、年間約2,000万円。そのほかに、維持管理費が必要。

2011年08月03日

変わってしまった世界

 3・11を機に、世界はすっかり変わってしまった。私から見える世界と言ってもいいかもしれない。こういう経験をしたのは、大学1年生の冬休みに初めてインドを訪問してい以来のことだと思う。

 もちろん被災された方々に比べれば、私の受けた衝撃や被害というものはたかが知れたものであろう。しかし、電車が止まり、駅のエスカレーターが止まり、停電があり、信号機が止まった時に、メッキがはがれて地の世界が立ち現れてきて、思わずたじろいでしまった。

 きっと、同じような経験は、敗戦時に、教科書のスミ塗りを経験した方々もされているのではないだろうか。これまで、空気のように当たり前で絶対的だと思っていた世界が、あくまでもそれは一つのお約束ごとの世界であったことを知ってしまう。

 少し、ポジティブな例でいえば、ウィンドウズが発売される以前のマックとの出会いとも似ている。

 インドから帰ってきてから、あくまでも、今見ている日本という世界も、一つのお約束ごとの世界であり、世界には別のOSで動いている世界もあるということを意識し続けて生きるようにしてきたつもりだった。しかし、最近は、海外に出かける機会も少なくなったせいか、いまあるOSが世界のすべてという思い込みが強くなっていたようだ。

 ちょうど、3・11後に、統一地方選挙があった。当然選挙であるから、街頭で訴えをするにも、これまでやってきたことについては訴え易かったが、今後のことについては、前提条件が違ってきすぎて、それまで考えていたことの体系が崩れてしまったがゆえに、難渋した。

 インドから帰ってきてしばらくは、強制的に新たに別のOSが強制的にインストールされたような状態で、2年ほど頭の中の混乱が続いた。
 しかし、所詮はインドにそのまま暮らすわけでもなく、平和で安全な日本での生活が続いたわけなので、世界が変容したとしても、所詮は頭の中の世界でのできごとに過ぎなかった。

 ところが、今回は、相当にきつい。とくにきついのは放射線だ。私だけならまだしも、私のこども達は放射線まみれの世界にこれからも生きていかなくてはいけない。
 これまでの人生において、また議員になってからも、無所属を貫いてきたので、特に東京電力からも東京電力労組からも便宜供与を受けたこともなかったが、やはり原発については、もっと反発しておくべきだったとの後悔は根強い。

 やはり、言うべきときに言うべきことを言っていくということの重要性だけは身に染みた。

 というわけで、ブログもしばらく、3・11の衝撃以来遠ざかっていましたが、再開をします。